会の歴史

ヨコの会の出来た背景、状況を紹介致します。

  • 私の父は、電力会社のサラリーマンで、私が生まれたのは、1951年8月でサンフランシスコ講和条約の年でした。その講和の名前を取り浩和(コウワ)ひろかずと名づけ、広く人と関わり平和志向で和をもって生きて欲しいとの願いがあったそうです。
  • 1967年神戸市立高専に5期生として入学し、1972年卒業、ミノルタカメラに入社しました。
  • 入社20年は、光学ガラス関係の技術者として、生産技術開発、品質管理、IE手法の実践、外注指導、設備発注業務と経験してきました。この経験が後の営業活動に大変役立ちました。(3現主義、標準偏差、盲人模象、ダラリ撲滅、WF、WS分析、省組統簡、等々)
  • 1990年代に入り、日本の高度成長で米国のジャパンバッシングが展開された。
    ミノルタはα7000の一眼レフ自動焦点カメラを開発し、一躍世界中のベストセラーとなるが、ピンホールカメラの技術であるハネウエル社から特許侵害の訴訟を受け、裁判となる。最終的に和解を受け入れ、多額の賠償金を支払った。
    この事が私の会社人生で大きく転機になる出来事となりました。→営業への転進
  • 1992年のミノルタは、一転して大幅赤字となり、企業再生が急務となり、その頃発展しつつあった複写機の国内販売に力を入れる組織をとつくり互恵営業活動がスタートし、そのメンバーの一員となる。今まで関係していた営業、友人に助けられ、実績があがった1年でした。
  • 1993年直接販売出来る直販会社を希望し、神戸ミノルタの明石支店長になりました。
    出社の日、挨拶が終わり、その後、なにやら判子を押して欲しいと3枚の紙を課長が持ってきました。
    その後、急成長で(方針は、新規開拓重点でテリトリー度外視で、どこでも売れるところは、売り、支店の独立採算を確立する)1年後は黒字化。
  • 一方、効果的な営業方法がないか、検討してる中で、キーワードとして互恵営業、人脈ネットワークの構築が再重要課題と位置づけました。
    異業種交流会の原点です。参加企業による互恵協業活動のスタートです。
  • その後1998年以降、法人営業部の責任者、大阪支店の営業部長、兵庫5支店の統括支店長を歴任しながら、異業種交流会は続けていきました。
  • 2005年中国広州での直販会社を立ち上げ、100名体制にして帰任。
  • 2009年日本の丸の内本社に帰任、2010年より東京異業種交流会ヨコの会を立ち上げる。
  • 2011年8月末、39年5ヶ月勤め、定年になり、9月より、㈱Hiroコーポレーション設立。
  • 2011年10月上海異業種交流ヨコの会を再開しました。
  • 2012年11月関西異業種交流ヨコの会を復活し、51回目となる。(会員数160社600名をこえています。)
  • 2013年9月12日アスコットホテルにて第200回広州ヨコの会開催
  • 2016年1月第300回上海異業種交流ヨコの会開催(記念行事蘇州明治乳業様工場見学)
  • 2018年7月17日梅屋にて第400回広州ヨコの会開催



~現在に至る。

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